amazarashiというバンドが好きで、去年は「ゴースト」のライブにも行った。
パフォーマンスの鋭さも、amazarashiらしい閉じたようでいてどこか先へ抜けていく世界観も、歌そのものの響きも強く印象に残っている。

amazarashiの曲には、暗さのただ中に留まりながらも、そこをわずかに抜けていこうとする気配がある。
私はたぶん、そういう曲に繰り返し惹かれてきた。
amazarashiが作詞・作曲し、中島美嘉さんが歌う「僕が死のうと思ったのは」も、私にとってはその延長線上にある一曲だ。

長い冬がようやく終わって、また暖かい季節になった。
最近は、新緑の中で光を観たり、追いかけたりすることが増えた。
葉を透けて落ちてくる光や、風で揺れて形を変える明るさを見ていると、ふとamazarashiの「光、再考」が浮かんだ。

光、再考 / amazarashi
YouTube 光、再考 / amazarashi

「光、再考」は、虚しさのある日々の中で、それでもなお微かな喜びや救いを見失わずにいようとする歌なのだと思う。
私が特に好きな歌詞は後半の部分にある。

流れ流れて明日は東へ 出会いと別れを繰り返して
光と陰を股にかけて 泣き笑いを行ったりきたり
そうだよ 大丈夫 大丈夫 皆同じだよ
上手くいかない時は誰にでもあるよ
そんな光

日が沈みまた昇るように 花が散りまた咲くみたいに
全てはめぐりめぐって 全てがほら元通り
もし生まれ変わったらなんて 二度と言わないで
今君は日陰の中にいるだけ ただそれだけ

誰かと出会い、誰かと別れ、その繰り返しのなかを、時間だけは黙って同じ速度で流れていく。

悔しさや虚しさを感じるとき、それは世界のすべてが暗いというより、ただいま自分が日陰に立っているだけなのかもしれない。
私はこの曲を、そんなふうにも受け取っている。

私は長いあいだ、自分を孤独な人間だと思っていなかった。
行きたい場所に行き、やりたいことをやり、それなりに自由に生きてこられたと思っていた。
それができていたのは、自分の力だけではなく、きっと運にも恵まれていたからだ。

それでも、ある時ふと、自分の孤独に気づいてしまった。
人生の中で本当に求めているものや、欲しいものの輪郭が、以前よりはっきり見えてしまったときに。
見えてしまった以上、もうなかったことにはできなくて、いまはその事実を抱えながら、自分なりの向き合い方を少しずつ覚えようとしている。

amazarashiが歌うように、虚しさそのものはたぶん誰にでもある。
いまはまだ、日陰の中にいるだけなのかもしれない。

この気持ちを、何かの形として外に出すこと。
あるいは、うまく言葉にならないままでも受け止めていくこと。
虚しさが消える日を待つのではなく、日陰に立ったままでも光のことを考え続けること。

いまの私にできるのは、そのくらいなのだと思う。
それでもたぶん、それで十分なのだ。