再び写真を撮り始めて、3ヶ月が経った。
3ヶ月前に書いた「カメラと、私」を読み返しても、いまも深く共感している。
生成AIが溢れ、テキストも写真も動画も、パソコンの中でいくらでも”それらしく”作れる時代になった。だからこそ私は、その日その場の光と、自分が触れていた温度を信じていたい。
瞬間の情緒も、目の前に広がる景色も、時間に流されず立ち続ける建築も――それらは「光のある世界」に確かに存在している。だからこそカメラで捉え、残していく意味がある。
いまの私は、その上にさらに「自分をシャッターに託す」という言葉を、写真に織り込もうとしている。
「「光、再考」ーー再考」を書いたとき、光とは温もりであり、希望であり、時間そのものだと考えていた。
でも少し物理的な話をすると、光は実は儚いものだ。光子は吸収された瞬間に消える。カメラのセンサーに当たった光も、その瞬間に存在を終える。
シャッターを切るとは、その消えゆく光の中に、自分が確かに立ち会ったという痕跡を刻む行為なのかもしれない。
宇宙のスケールで見ても、同じことが言える。星の光は何万光年も旅して地球に届く。その星がすでに死んでいても、光だけは今も届き続ける。存在は消えても、光は残る。自分をシャッターに託すとは、そういうことだと思っている。
いつか自分という存在が消えても、託した光だけは誰かのもとへ届き続ける。写真はそういう意味で、言葉にならないものが書かれた手紙だ。
読み取りは受け取った人に委ねられている。撮った私の想いと、見てくれる人の間には、広大な余白が広がっている。その余白ごと、私はシャッターに託している。
最近構想している新しい遊び方も、究極的な光の残し方だ。媒体を介しては良さが伝わらないから、SNSには出さないつもりでいる。いつかお見せできたら嬉しい。
最後は、私が最近書いた文字のない手紙だけをお届けする。
