それは、ある若い夏に生きていた。

初春の頃、初暖の風の中で健気に芽吹いたそれを見つけ、私はそれを摘み取って浴室の窓辺に置いた。幼く瑞々しい青緑色は、青春の美しさと生の情熱を示しており、次々と新しい葉を広げては夏を待ち望んでいた。

それもまた、熱烈な夏だった。とても熱く、そして激しい夏。

朝、私は土に一杯の水を注ぎ、日が暮れて四方が静まる頃に再びそれを見ると、もはやふくよかな緑色は失われていた。木の葉は次第に枯れて黄色くなり、ただ根元だけにわずかな生きる痕跡を残すのみだった。しかし、再び清水を注ぎ込むと、翌日にはまた元の平穏を取り戻すのだった。

一日また一日と、このような単調で、それでいて飽きることのない日々が緩やかに七月を通り過ぎ、秋へと向かっていった。

それが枯死したとき、前兆などは何もなかった。その短き生命は、ある静かで、深い夜に終わりを迎えた。

どのような慰めをもってしても、もう以前の姿に戻ることはない。それが、時間の終わりがその一生を締めくくったのか、それとも私の泥にまみれた両手がそれを汚してしまったからなのか、私には分からない。

人は青春について語るとき、その彷徨いや絶望、夢の中で形作られる言葉にできない哀傷、そして目覚めたときの虚無感について口にする。もし私が言葉に窮さなければ、青春という大河に浮かぶ大層な道理を並べ立てることもできただろうが、今はわざわざそんなことを書く必要もない。それは、ただ「生かすこと」と「守ること」の間の記憶を呼び覚ますだけなのだから。

「人の命は草芥の如し」という言葉なら、あなたも理解できるだろう。しかし、草を用いてその微力さを例えようと考えたことはあるだろうか。

おそらく、それが最も早く春を察知したからであり、また、ただ一杯の清水さえあればその命を養うことができるからこそ、草の生命の「微薄さ」を感じるのだろう。人間の命と同じように。

青春とは、おそらく華やかな夏に例えることができる。満ち溢れる生命力を宿しながらも、烈日の暑さによって葉を焦がされる。このような青春期特有の哀傷が形成されるのは、あなたが周囲や環境から得る栄養が、生まれ持った気高さを包み込むには足りないからだ。

あなたが切実に渇望しているのは、ただ一杯の水に過ぎないというのに。

この一杯の水は、あなた自身が汲み上げるしかなく、誰も代わりに汲むことはできない。

この一杯の水の別名は、「生きる意味」という。


(※ここからは30代になったいまの自分が書いたもの)

私は当時から、儚いものに惹かれていた。枯れていく草を見ながら考えていたのは植物のことではなく、人は何によって生かされるのかということだった。

高校生だった私は、その答えを「生きる意味」という大きな言葉で表現した。でも今振り返ると、それは少し抽象的すぎたように思う。

当時の私は問いを持っていた。しかし、経験が足りなかった。だから「生きる意味」や「青春」といった大きな言葉でしか語れなかった。

この一杯の水は、あなた自身が汲み上げるしかなく、誰も代わりに汲むことはできない。この一杯の水の別名は、「生きる意味」という。

高校生の私はこう書いていた。

当時の私は多分私なりの答えを感覚的に掴んでいたけど、言語化するための人生経験が足りなかった。

昔の私は草を見ながら人生を考えていた。今の私は写真を撮りながら同じことを考えている。

問いはあまり変わらなかった。ただ、その「水」に対する解像度だけが少し上がったのだと思う。

15年経って読み返してみると、私は新しい答えを見つけたというより、高校生の頃の自分が何を見ていたのかをようやく理解できるようになったのかもしれない。

今の私も、草が枯れていく姿に心を動かされるところだけは、あまり変わっていないらしい。